耳障りの良い『アクティブラーニング』に惑わされない、真の学力とは何か?【新しい学力】

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アクティブラーニングと聞くと、さも素晴らしい次世代教育のような気がする。しかし著者は、そのアクティブラーニングという耳障りの良い言葉に惑わされないよう警鐘を鳴らす。真の学力とは一体何なのか、そんな議論が『新しい学力』では展開されている。

まずはアクティブラーニングと新しい学力の定義をしてからザックリと筆者の主張をまとめ、最後に僕の意見を書く。

 アクティブラーニングとは、新しい学力とは何か

この本はTVにも出演されている有名な教育学者である齋藤孝さんが書いたもの。序盤は新しい学力であるアクティブラーニングの概要や必要性を説くところから始まる。

著者のアクティブラーニングの定義はこうだ。

学習内容それ自体ではなく、子どもたちの学び方に着目した概念である。

 (『新しい学力』P22より引用)

 また、他の言い換えとして、

伝統的な学力が「学習内容」としての知識を身につけるものであるのに対して、アクティブ・ラーニングはあくまで学びの「方法」であることを再確認しておきたい。

(『新しい学力』P24より引用)

としている。


つまり、これまでの教育が「石灰水が白く濁ったら二酸化炭素である」といった学習内容そのものであったのに対し、アクティブラーニングとはこの学習内容自体を実験をしながら確認したり獲得したり、議論したりといった、一歩前の段階から一歩先の段階まで踏み込んで学ぶ”方法”それ自体のことである。

そして、

結果としての知識よりはプロセスが重視される。その学習プロセスを技として身につけることが、新しい学力の本質である。
(『新しい学力』P20より引用)

 とあるように、これからの変化が目まぐるしい時代への対応として単なる知識の習得ではなく、そもそもの考え方自体を会得することで応用可能性を広げましょうというのが「新しい学力」の目指すところだ。

はたして本当にアクティブラーニングで良いのか?

本書の最大の特徴はこの近年もてはやされている「アクティブラーニング」に疑問を投げかけている所である。

そして筆者の最大の主張は「これまでの「伝統的な学力」とアクティブラーニングすなわち「新しい学力」とを統合した教育を目指そう」という所に落ち着いており、知識を軽視しかねない現在の風潮に疑義を唱えている。

この主張の根拠として

  • 伝統的な教育は悪くない
  • 「主体性」は良いことなのか?
  • 知識があって初めて発想できる

以上の3つが挙げられる。

伝統的な教育は悪くない

しばしば批判されがちな日本の教育であり、そういったイメージを抱きがちだが実態は異なる。

問題解決能力調査の代表であるPISA調査 では、65の国と地域の中で日本は数学リテラシーの平均得点は七位、読解力四位、科学的リテラシー四位に位置付けている。

日本が度々教育モデルの参考にするアメリカは、数学リテラシーが三十六位、読解力が二十四位、科学的リテラシーは二十八位である。教育先進国のイメージがある北欧諸国の一つスウェーデンもそれぞれ、三十八位、三十六位、三十八位という結果に終わっている。

以上のことを踏まえて

PISAの調査を過度に信用することは適切ではないが、「新しい学力観」の根幹に関わる「問題解決能力調査」といわれる試験で、日本が他の欧米諸国より顕著に優れた結果を残している事実は無視すべきではないだろう。
(『新しい学力』P63より引用)

 とし、

日本が現在「追いつき、追い越せ」と参考にすべきモデルとなる他国はない、と私は考える。

(『新しい学力』P66より引用)

とまで述べている。

また現実的に、「聞こえの良い理想を掲げるのが必ずしも正しいとは言えず、ベストでないにしても結果が出ている安定的な教育方法を提案することも重要」とする。

「主体性」は良いことなのか?

筆者は、主体的でイノベーターの代表格であるスティーブ・ジョブズを例にとって

はたして、スティーブ・ジョブズは教育によって生み出されたのだろうか。

(『新しい学力』P100より引用) 

という疑問を投げかけ、続けて

そもそも、みんながジョブズになることは望ましいことなのだろうか。 

 (『新しい学力』P100より引用)

と問題提起から始めて主張を展開する。


果たして「主体性」とは、全ての人が伸ばしていくべき柱なのか。いや、そうではない。多くの人間は組織に属することになる。そんな組織の中で主体性を発揮するのはむしろ生産性を下げてしまう。

またみんながジョブズであったら、他のジョブズからの命令をジョブズは聞いていない。ジョブズの強烈な要求を受け止め、それを地道に形にする人の存在があって初めて世界を革新する製品を生み出すことが出来る。

つまり人間には適しているポジションや役割があり、誰もが主体的になってしまったら組織は回らないし、ひいては日本も回らないということを言っている。

これらを踏まえて、

なぜここであくまで主体性を軸とした方向へと教育方針の転換を図る必要があるのか。そこには実現困難のリスクがある上に、現実にその主体性が求められているかもわからない。そうしたなかで理想を並べて、理想は正しいのだからやってみようという判断で本当にいいのか、よくよく考える必要がある。

(『新しい学力』P112より引用)

と主張をまとめている。

知識があって初めて発想できる

アクティブラーニングは「学びの方法」であり、新しい学力は「学習プロセスを技として身につけること」であった。そしてこれらは、創造力や直感力を育むものとして期待されている。だが、本当にそうだろうか。

創造力や直感力や主体性といった言葉を一人歩きさせるのは危険である。知識を詰め込まなければ斬新な発想が生まれやすいというのは、いかにも単純で現実に即していない無責任な考えだ。

(『新しい学力』P132より引用)

 すなわち、知識を付けないからといって創造性が育まれるなんてことはないし、モノの見方、思考力、発想力、創造力ばかり鍛えたって仕方ないと言い、

発想とは、知識と経験に基いて新たな組み合わせを考えていくこと

 (『新しい学力』P131より引用)

から、発想力や創造性というのはそもそも知識が無いと無理だし、知識があって初めて発揮される能力だとしている。さらに、新しい発想というのは既存の知識の組み合わせだということも述べている。

知らない分野のことをいくら考えたって、新たなアイデアは湧いてこないことからもこのことは明白だろう。

僕はアクティブラーニングが嫌い

僕はアクティブラーニングが嫌いだ。アクティブラーニング、いわば主体性を身につけることは果たして教育として行われるべきなのかが疑問であるからだ。また、それは教育で身につくものなのかが疑わしい。この点において筆者と意見は近い。

そしてアクティブラーニングを実践したとえ創造性や主体性を獲得できたとしても筆者もいう通り、結局創造性というのは知識があって初めて発揮されるものだから、結局イノベーターのような人材がそこから生まれるとは到底思えない。

そして何より、いまの教育の問題点の解決策に対して「アクティブラーニングの実践!」みたいなのは余りにも表面的で、単なるバズワードのようなものに乗っかってる気しかしないのだ。

そして筆者も恐らく同じような感覚があって、その点において近い意見だなと思った。


ただ異なる点ももちろんあって、「伝統的な学力と新しい学力の統合がふさわしい」という点においてはまずまず同意だが、その具体的な方策がイマイチしっくりこなかった。新聞読むとかそんな感じだった気がするけど、正直「…」って感じだ。その辺りの詳しい内容は本を読んで確かめて欲しいのだが。。。

とにかく僕らが思っている以上に日本の教育レベルは高い。ただ中国や米国と比べ、データサイエンスの人材が圧倒的に足りていないなど、問題もかなり多いのもまた事実であり、人々の問題意識と実際に起きている問題との間に隔たりを感じる。(「主体性を身につけるべき」なんてのは問題じゃないし、データサイエンスレベルが低いほうがよっぽどヤバイと思うんだが。。。)

知識詰め込みなんてモノを批判するんじゃなくて、むしろもっと学ぶべきことを今一度見直して、ちゃんと必要で役立つ知識を詰め込んだ方がいいし、しっかりと時代に適応したり個々人に学びを最適化させていったりした方がいい。

結局アクティブラーニングを学校教育でやったらそれは画一的なものにしかならないのだろうし。

僕が考える『真の学力』は各々に最適化された教育だったりするのだが、これを書き出すと長くなるのでまた別の機会に書く。


本書『新しい学力』はいまの「アクティブラーニング」だとか「主体的教育!」みたいな一種のバズワードで稼ごうとしてたりする人らには少々耳の痛い話のような気はするが、結構正論を飛ばしてて痛快なので読んでみると良いと思う。